小田急線は開業わずか2年で玉川学園のために新たに線路を引いた?

2024.05.01
松山 巌

ウェブで小田急線の歴史を調べていたら,驚くべき内容のブログ記事に出会った。その名も『廃線になった小田急の線路』1
「玉川学園前駅が開業する前、小田急線は今とは別なルートをたどって鶴川から町田へ至っていたという話だった。しかし玉川学園がこの地に出来た昭和4年、トンネルを新たに掘り玉川学園前駅が出来て現行線のルートに変更されたという」とのことである。
本学の創設当時,最寄り駅がたいへん遠かったので,創設者の小原國芳が小田急電鉄に掛け合って学園の前に駅を作らせたというエピソードはよく知られている。本学の公式サイトに掲載された記事には,「土地開発と並行して小田急電鉄と交渉。玉川学園が駅敷地及び駅舎、建築材料降荷のための引込線用の敷地を提供するという条件で、小田急電鉄は『玉川学園前駅』を新設することを確約。(中略)玉川学園前駅の開業当時は、駅の収益額が目標の額に満たない場合は、不足分を玉川学園が補填することになっていました。実際に当時は補填もしていました」2と書かれている。また,駅の業務開始が1929年4月1日,玉川学園の開校はその1週間後の4月8日だったという。3
つまり,小田急線の線路そのものは開業当初から現在のルートを通っていたが,学園の開業に間に合うよう新たに駅を作ってもらい,損失の穴埋めまでしていたわけである。
ところが,先述のブログの記事によると,そもそも小田急線は別のルートを走っていて,玉川学園エリアには線路そのものがなかったのが,本学設立のために線路を移設し,その際に玉川学園駅もできたのだという。驚きの新事実である。
今回はこのブログの内容について検討してみたい。もちろん,公式の社史などに当たればすぐに分かるであろう。路線変更ほどの大事業であれば何らかの記述があると考えられる。しかし,ここではそれ以外の状況証拠から,この記事の真偽にどれだけ迫れるか検討してみたい(必要に応じて社史も参照はするが)。
まず感じるのはコストに関する不自然さである。既存の鉄道路線に新たに駅を作るのと,路線そのものを変更するのとでは,必要なコストは桁違いに異なるであろう。駅を作るのであれば(それも,路線の分岐や通過待ちなどのない小さな駅であれば),ハードウェア的な変更としては,駅舎やプラットフォームを作り,信号システムに若干の変更を加える程度で済む。ところが,別の路線を通っていたものを廃線にし,新しい路線に引っ越すには,まず線路そのもの(レール,枕木,砕石などいっさい)の新設と撤去が必要である。さらに,小田急線は開業当初から電車で走っているので,架線関係の設備も新設と撤去が必要になる。線路さえあれば走れるSLやディーゼルカーとは訳が違うのだ。昭和恐慌の時代,駅の新設にも赤字の懸念を示し,学園側に埋め合わせまでさせた小田急が,そこまで気前よく線路の移転に応じるとは考えにくい。

第2に,鶴川~町田間に新たに線路を通す際に,そもそも鶴川から西に向かうようなルートを選定するだろうかという疑問がある。
記事には次のような部分がある。

「古くから町田在住の方4によると鶴川駅の鶴見川を渡る手前で現在線は大きく左へカーブするが、旧線は右へ逸れ谷あいを町田へ向かっていたそうだ。
ここからは想像ではあるが、恐らく線路は現在の鶴川街道伝いにあったのだろう。
線路は現在の金井、木倉、藤の台、市立博物館下、菅原神社前の辺りを通過し現在の町田高校や市役所の旧庁舎前を通り町田駅へつながっていたという。
確かに谷間を走るので現行線とは異なり勾配も少なく、建設に一番おカネの掛かるトンネル掘削の必要もないルートだったのだろう。
でも現行線と比べるとかなり大回りなルートでもある。
しかも開業から僅か2年足らずで廃線になってしまったというからかなり勿体無い気がする。」
伝聞の形を取ってはいるが,見てきたかのようなリアルな描写である。
この記事によると,現行のルートは途中に急勾配があってトンネルを掘る必要があり,それを避けるために西に迂回したのだという。
一般に,鉄道というシステムはカーブと傾斜に弱い。曲線はなるべくゆるやかに(できれば直線で),また傾斜もなるべく水平に近い方が望ましい。そうでないと,スピードが出なかったり逆に出過ぎたり脱線事故を起こしたりする。その観点から,鶴川~町田間に線路を引くとき,どのようなルートが考えられるだろうか。

図は,鶴川駅から町田駅までのルートに沿った断面図である(国土地理院サイトの「地理院地図」機能を使用。起伏が分かるように,縦方向は横方向に対して54倍に拡大)。左の図はブログが当初の路線としている「大回りのルート」に沿い,右の図は,現在の小田急線の路線に沿って作成した。
地形のデータを元にしたデータなので,実際の線路では,切通し・築堤・トンネルなどを作ってこれよりなだらかな勾配になる点に注意されたい。例えば,右の図で水平距離2000m付近に標高90mを越すピークがあるが,これは本学が位置する丘陵部分に相当し,実際の小田急線はここに境塚トンネル(長さ230m)5を貫いて通っている。それ以外は左右でさほど大きな差はない。迂回ルートでも現行のルートでもそれなりの登り坂はあるが,境塚トンネル以外は切通しを掘れば処理できる程度だ。わざわざ遠回りするほど右のルートが急勾配だとは思えない。
しかも,現行ルートは鶴川・町田間を比較的まっすぐ結んでいるのに対し,左のルートは迂回する分だけ距離が長くなり(約1km),カーブも増える。スピードの点ではマイナスである。
一方で,山がちな日本では,カーブや傾斜を小さくしようとすると,どうしてもトンネルが多くなる(多くの新幹線がトンネルだらけなのを見れば明らか)。鉄道技術が未熟だった明治時代前半にできた路線では,スピードを犠牲にしてもトンネルを短くするようなルート選定が行われたこともあったが6,小田急線が開通したのは1927年(昭和2年),その4年後には高崎と新潟を結ぶ上越線の清水トンネルが開通しているのだ(長さ9702m,当時としては東洋一)。長さ230mのトンネルなど問題にもなるまい。
したがって,鶴川~町田に鉄道を通そうと考えたとき,玉川学園があろうがなかろうが,現行のルートが最も自然である。

なお,このブログが書かれた約8年後に,次のようなコメントが寄せられている。

「以前中町[町田市中町:筆者注]に住んでいた者です。
在住当時から不自然にまっすく伸びている道に不思議な違和感を抱いていました。
水道道路であればもっと直線になるはずで、ほんの少しS字を描いているために何かの転用跡ではと思っていました。
今回このブログを拝見し、玉川学園駅開業前の旧路線であることで、在住当時数えきれないほど中町周辺を散策したときの不思議感が解消されました。
新中町平和公園付近以南の道は明らかに鉄道路線の転用跡だと思われます。そこから現在の小田急線を超えて元の駅「原町田」があったところに向けて緩やかに曲線を描いた道路が断片的に残っている点も合理的です。」7

道路がカーブしているから鉄道の転用跡だと判断するのには無理がある。確かに,地形図を見ていて道路の微妙なカーブから廃線となった鉄道のあとではないかと気づくことはある。前述の通り鉄道は急カーブが苦手だからだ。しかし,逆は必ずしも真ならず。

この図は,この投稿で触れられている地域の新旧の地形図である8。左側は大正10年測図のもので,まだ小田急線はない。右側はリアルタイムに更新されている国土地理院の地図である。投稿者がいう「新中町平和公園」の場所に☆印を付けた。この公園の東側を南北に通っている黄色い道(都道・鶴川街道)は,確かに一直線ではなく微妙にカーブしているが,左の地図を見ると分かるように,それは昔からなのだ。都市開発や区画整理という言葉もなく,自動車もない時代,農村部の道はなんとなくカーブしているのが自然なのである。それは左の図にある道がほとんどカーブしていることからもわかる。そして,話題になっている道はもっと古い明治時代の地図でも同じカーブを描いている。周りの農道は区画整理などで直線化するなかで,鶴川街道は(あまり拡幅されなかったこともあって)昔からのゆるくカーブした道筋が保存されただけの話である。カーブしているからといって何でも鉄道にむすびつけてはいけない。
なお,実は小田急の社史を見ると,境塚トンネル(正式名称は境塚隧道)は「昭和2年1月着工,7月竣工」とはっきり書いてある9
これで明らかになった。小田急線は昭和2年7月に開業している。小田急線は最初から現在のルートを通っており,鶴川から西に向かう路線は当初から存在しなかった。
ブログの記事を読んで真に受けた人は,せっかく開業したのに玉川学園が難癖を付けてきたのでわずか2年で工事をし直す羽目になり,小田急が多大な出費を強いられた,小原國芳はひどい人だと思うかもしれない。しかし,そのようなことはあり得ない。むしろ損失補塡までしているのである。本学と小原國芳の名誉のためにもここははっきりさせておきたい。
もちろん,ブログの筆者やコメントを寄せた人に悪意がないのは明らかで,昔の情報(結果的には誤っていたが)を聞いて,そこに夢を抱いたのであろう。
なお,詳細は省くが,鶴川から西に分岐する鉄道の計画そのものは実際にあった。ただし,町田に戻るのではなく,そのまま西進して淵野辺方面に向かう計画だった。その情報がどこかで誤って伝わったのではないだろうか。

  • 1
    宵闇.『廃線になった小田急の線路』.「まほろ市発なんでもありのブログ」2015年10月22日16:26:56掲載,https://ameblo.jp/enolagay1945/entry-12521854706.html(2024年4月22日確認)
  • 2
    『小田急線「玉川学園前駅」の開業と玉川学園』.玉川豆知識 No.39,https://www.tamagawa.jp/introduction/tamagawa_trivia/tamagawa_trivia-39.html(2024年4月22日確認)
  • 3
    小田急電鉄の社史にもつぎのような記述がある。
    「小田急側は,駅敷地と駅舎を学園側で提供し,1か月200円の売上金を保障(ママ)することを条件に駅新設に応じた。これで□印の行先板の小田原直通列車は停車することになったが,○印の行先板の江ノ島直通列車は,稲田登戸(現・向ヶ丘遊園)から新原町田(現・町田)までの間ノンストップであったため,これを停車させるのに,学園側はさらに電気代として月額97円60銭を支払い,また1か月の売上が前記200円に達しない月には,月末に回数券をまとめて不足額を埋めたこともあったとか。」(小田急電鉄株式会社社史編集事務局編.小田急五十年史.小田急電鉄,1980. p.111)
  • 4
    このブログは「先日玉川学園前の噂というページにとても気になる事が載っていた。」という一節で始まっている。しかし「玉川学園前の噂」というページは現存しない。そのため,「古くから在住の方」から話を聞いたのがブログの筆者の「宵闇」氏なのか,それとも「玉川学園前の噂」の筆者なのか,はたまた「~噂」の記事に対して寄せられたコメントの類いなのかも曖昧である。
  • 5
    小田急沿革史編纂委員会編.小田急二十五年史.小田急電鉄,1952
  • 6
    例えば1891年(明治24年)に青森まで全線開通した東北本線では,そのようなルートがスピードアップの障害となったため,のちにルートを変更した箇所がいくつもある。
  • 7
    2023年10年17日03:28:13投稿(2024年4月22日確認)
  • 8
    時系列地形図閲覧サイト「今昔マップ on the web」(©谷 謙二)により作成。
    https://ktgis.net/kjmapw/kjmapw.html(右側の地理院地図は2024年4月22日取得)
  • 9
    前出『小田急二十五年史』折り込み図

プロフィール

  • 教育学部教育学科 通信教育課程 教授
  • 東京大学大学院教育学研究科博士課程修了。
  • 中学・高校の理科教諭(地学)を経て現職。
  • 専門は図書館情報学(情報資源の組織化を中心に)。
  • 著書:『Webで学ぶ情報検索の演習と解説』『韓国目録規則3.1版日本語訳』(いずれも共著)など。
  • 学会活動:日本図書館情報学会、日本図書館研究会、日本地図学会など。
  • 関心のある分野は韓国、漢文、フォント、音声学、地質学、確率論など。
  • 趣味はカラオケ、地図読み。
  • 好きなものは辞典・事典、新聞の号外、計算尺、スコア(総譜)、クリスマスの音楽。