リーフデ号のそれから

2013.11.28
森 良和

復元されたリーフデ号(ハウステンボス)

最近日欧交渉史に関する本を大変興味深く読んだ。オランダ生まれのディルク・ヤン・バールフェルト著『オランダ人の日本発見』*という英語の本である。邦訳はまだされていない。同書は日本に来航したオランダ船リーフデ号を中心に、同船を含む5 隻の船団(マフー船団)の辿った運命を詳述したものである。徳川家康に厚遇されたウィリアム・アダムズ(日本名「三浦按針」)やヤン・ヨーステン以外の、従来あまり語られることのなかったリーフデ号の生き残り船員たちの消息も同書で知ることができる。
リーフデ号は1600 年4 月、日本の豊後(大分県臼杵湾黒島付近)に来航した。
教科書ではこれを「漂着」としているが、目的地を日本に定めてやってきたのだから「来航」である。マフー船団は1598 年6 月にオランダを出航したのち、大西洋を南下し、難所マゼラン海峡に入ったものの、猛烈な嵐によって5隻は互いに離ればなれになった。1 隻はオランダに引き返している。何とか海峡を抜けたリーフデ号はチリ沖で僚船ホープ号と再会し、積荷の毛織物が銀と交換できると見込んで、以後の針路を日本に定めた。船団の航海ルートは出航時には確定していなかったのである。

復元された黒船(マラッカ海洋博物館)

しかし、ホープ号は太平洋航行中に嵐の中で消息を絶ち、リーフデ号のみが日本に辿り着いた。生存者は24 人、立てたのは6 人だけであった。その後も衰弱した船員たちが次々に死亡したので、日本で生活を始めたのは18 人となった。当時日本で布教していたカトリック宣教師らは、リーフデ号の船員たちは海賊であると中傷し、処刑さえ求めた。だが家康は応じず、かえってアダムズらを重用したのは彼らにとって幸いであった。「紅毛人」たちの何人かは当然帰国を願い出たが、家康はなかなか許可せず、ようやく5 年後、リーフデ号の船長だったヤコブ・クワケルナックと航海士メルヒオール・サントフォールトは朱印状とオランダ総督への親書を携え、平戸藩主松浦鎮信の支援を受けて、離日することが許された。
マレー半島のパタニに到着したクワケルナックは、東インド会社の職を得ようとしたが果たせず、甥が指揮する船団がジョホールに停泊していることを知るとそこに向かい、甥と運命的な再会を果たした。しかし、まもなくポルトガル人との戦いで戦死した。日本に戻ることを選んだサントフォールトは貿易商として活躍したが、祖国に戻ろうとしたヤン・ヨーステンは台湾沖で遭難死した。他の船員たちも多くは日本で暮らし、結局リーフデ号の船員で帰国できたものはだれ一人いなかった。リーフデ号の遺物は今も東京国立博物館に所蔵されている。船尾に取り付けられていた「エラスムス像」、および航海図「南洋鍼路図」であり、一見の価値は十分ある。
(「玉川通信」2013年4月号をベースに加筆修正)

*Dirk Jan Barreveld、 The Dutch Discovery of Japan:
The True Story Behind James Clavell’s Famous
Novel SHOGUN、 Lincoln NE. USA、 2001.

プロフィール

  • 通信教育部 教育学部教育学科 教授
  • 早稲田大学 博士課程 文学研究科 史学 単位取得満期退学。文学修士。
  • 専門は、十六・十七世紀の諸相、日欧交渉史、大学の歴史、比較文化文明論など。
  • 玉川大学高等部教諭を経て現職。
  • 著書:『歴史のなかの子どもたち』(学文社)、『ジョン・ハーヴァードの時代史』(学文社)、『他者のロゴスとパトス』(共著、玉川大学出版部)、『リーフデ号の人びと』(学文社)などがある。
  • 日本西洋史学会、比較文明学会、大学史研究会、早稲田大学史学会 会員