ノートは何のためにとっているのでしょうか
2014.02.05
魚崎 祐子
“先生が黒板に書いたことはノートにとる。”これは多くの皆さんもこれまでの学校生活を通じて身につけてきた習慣ではないでしょうか。思い起こせば、私も「ノート=先生が黒板に書いたことを写すもの」という認識だった時代があります。ところが中学校に入学し、授業中ずっと話し続ける社会科の先生の授業を受けた時、それまでの習慣に基づき、時々黒板に書かれる人名や歴史用語だけをノートに写していたところ、後で見直しても何のことだかさっぱりわからないノートとなってしまいました。さらにそのままテストに臨んだために、当然のことながらひどい結果となってしまいました。そこで改めて周りを見渡してみたところ、友人たちは先生の一語一句を逃すまいと必死になってノートをとっていることに気づきました。
理論的に述べると、大切な情報を絞ることなく何でもノートにとるというのは効果的ではないとされるのですが、中学校1 年生の私たちにとって、授業を聴きながら重要な情報とそうではない情報とを区別することは難しく、とにかく授業中はすべての情報をノートにとり、後で整理し直すという方法をとっていたのです。この出来事は、ノートがただ黒板に書かれたことを写すための道具ではないのだと気づいたきっかけであったように思います。
講義をする立場になった今、学生の皆さんの様子を観察していると、「黒板に書かれたことはノートにとる」という習慣が顕著に現れる瞬間があります。配布資料には書かれていない情報が黒板やスクリーン等に提示されるや否や、多くの学生が一斉にノートをとり始めるのです。いや、正確には写し始めるといった方がよいでしょう。同じ情報であっても視覚的に示さなければ、教室中が一斉にノートをとり始めるという動きはあまり見られません。きっとノートをとるかどうかの判断基準は、情報の重要性や自分にとっての必要性ではなく、視覚的に示されたかどうかなのでしょう。
一般的にノートテイキングの効果があるのは、符号化といってノートをとる際に深い処理をした時や、外部貯蔵装置としてノートを後で見直した時だとされています(Di Vesta & Gray、1972、*)。つまり、様々な器官を活動させ、重要な情報を判断し、選び出してノートにとることが求められるのです。また、箇条書きにしたり、まとまりを作ったりすることによって情報を整理することは、口頭情報を聴きながら深い処理をしていることの表れであるとともに、後でノートを見直す際にも有効であると考えられます。
このように、ただノートに情報を残せば必ずしも有効であるわけではなく、何を目的とし、どのような処理を行いながらノートをとったのかによってその効果は変わってくるのです。そのように考えると、教員が示した情報をただ機械的に写すという行為だけでは不十分であるかもしれません。日頃当たり前のように行っているノートテイキング、自分は何を目的としてどのようなノートをとっているのかについて改めて考え直してみてはいかがでしょうか。
(「玉川通信」2013年5月号をベースに加筆修正)
- Di Vesta、 F. J. and G. S. Gray( 1972) Listening and Notetaking. Journal of Educational Psychology、 63、8-14.
プロフィール
- 通信教育部 教育学部教育学科 助教
- 早稲田大学大学院人間科学研究科 博士後期課程修了
博士(人間科学) - 専門は学習心理学、教育心理学
- 早稲田大学助手などを経て現職。
- 著書に『Dünyada Mentorluk Uygulamaları』(共著、Pegem Akademi Yayıncılık、2012年)、主要論文に『総合的な学習の時間における教師の支援が生徒の情報選択に及ぼす影響』(共著、日本教育工学会論文誌(30)、2006年)『テキストへの下線ひき行為が内容把握に及ぼす影響』(共著、日本教育工学会論文誌(26)、2003年)などがある。
- 学会活動:日本教育工学会、日本教育心理学会、日本教授学習心理学会、日本発達心理学会 会員