日本の宇宙開発・ロケット開発の父・故糸川英夫博士と玉川学園
小惑星探査機「はやぶさ」の探査対象となった小惑星「イトカワ」は、日本の宇宙開発・ロケット開発の父といわれた故糸川英夫博士の名前にちなんで、そのように名付けられました。
その故糸川英夫博士と玉川学園の繋がりを紹介します。
1945年(昭和20年)に糸川研究所が疎開のために玉川学園内へ移転してきました。移転場所は、現在の大学5号館の建物と第2実技・実験棟の間あたりです。その場所から現在の大学5号館の建っている場所にかけて、当時、玉川高等女学校の建物がありました。糸川研究所は、その建物の一部を使用していました。
同研究所の移転の理由について、『玉川学園五十年史』には次のように記されています。
- 当時、国防上重要な研究に当たっていた糸川研究室が防諜上絶好の場所にあることが必要だったため。
- 玉川学園の生徒で優秀なる者が研究助手としてその仕事に参与することを糸川博士が希望されたため。
同年、玉川学園が開設した玉川工業専門学校の指導顧問に糸川博士が就任されています。
また、糸川博士は、1947年(昭和22年)に開設された玉川大学(文農学部)において、翌年度より「科学」の講義を担当されました。当時の教員一覧には、田中寛一氏(「心理学」)、波多野精一氏(「哲学」)、福島政雄氏(「教育学」)、田中末広氏(「国文学」)、岡本敏明氏(「音楽」)などの名前も記されています。
そして、1952年(昭和27年)には、糸川博士の監修のもと、『ひこうき』(玉川こども百科シリーズ)が玉川大学出版部より刊行されています。
なお、『玉川教育-玉川学園三十年-』には「全人教育賛美」というタイトルで糸川博士の文章が掲載されています。その中で、「全人教育」について書かれた箇所を以下に抜粋します。
「この頃、ロケットだの宇宙科学だのを何となくやるようになって、あらためてパイオニアというものの苦しみと喜びと、難しさと得難さと、そして貴さというものを又身に沁みて考えさせられ、全人教育という新しい原野の開拓者としての小原國芳先生と、その玉川学園を憶うことしきりです。
(略)
私共はどうも分野にこだわりすぎるようです。文学、哲学、農学、理学、工学だのと知識を細分し、境界をつくり、そして進歩を妨げてもいるようです。
小原國芳先生の『全人教育』ここに於いて大賛成です。宇宙科学がそうであるように、新しい科学や技術が出来るときには、先ず『全人』的なものの考え方が必要であるからです。」