玉川大学・玉川学園学友会寄附講座[文学部] 日本語と漢字―日本語の文字と書記法を理解するために―
玉川大学・玉川学園学友会では卒業生を対象とした行事のほか、現在玉川の丘で学んでいる学生や生徒たちに向けた在学生支援にも力を入れています。そうした支援の一つに寄附講座があり、毎回各界の識者や卒業生を中心にさまざまなゲストをお招きし、講演会などを開催しています。
6月7日(木)、筑波大学名誉教授・元副学長、聖徳大学名誉教授で、元文化庁文化審議会国語分科会長などを務めた林史典先生をお招きして、文学部国語教育学科1年生を対象とした学友会寄附講座「日本語と漢字─日本語の文字と書記法を理解するために─」を開催しました。
林先生は数多くの著書を持つ、文字、漢字音研究の第一人者で、現在私たちが使っている「常用漢字」の改定も手がけられました。講演はまず漢字の起源から始まりました。
以下、講演の概要を紹介します。
1. 漢字はどのような文字か
漢字の歴史は世界四大文明の一つ、古代中国文明の甲骨文字に遡ります。ラテン文字のような音素文字や仮名のような音節文字とは異なる「単語文字」であるというのが漢字の特質です。現在、日本語で使われている「常用漢字」と「人名用漢字」は合わせて約3000字。漢字は字種が多く字形も複雑で習得は難しいのですが、表そうとする語を特定して表すことができる機能、すなわち「表語機能」に優れている点で、他の文字には真似できない大きな利点があります。
2. 漢字は、いつごろ伝わって、どのように定着したか
漢字が最初に日本に伝わったのは、多分、1世紀頃。弥生時代の遺跡から発掘された中国「新」の時代の貨幣「王莽銭(おうもうせん)」の一種や、歴史教科書に登場する「漢委奴(かんのわのなの)国王」の刻印がある「金印」がその証拠となっています。
ただしその漢字が使われ始めた痕跡は、古墳から出土した太刀に刻まれた5世紀末の銘文などが最初。8世紀になってようやく『古事記』『日本書紀』『万葉集』が現れます。
『古事記』『日本書紀』や『万葉集』で使われた漢字の音節文字的用法を経て、平安時代初期(9世紀)に漢字を略体化した日本独自の仮名(平仮名、片仮名)が生まれました。以後、日本語は漢字と仮名の混合書記法(Mixed Writing System)を用いる言語として改善されていきます。日本語は、音節文字・単語文字、そして音素文字までも、すなわち3タイプの文字を使い分けており、これは世界的にみてとても稀なことです。最初期、文字を読み書きできるのは限られた階層の人々だけでした。識字層が拡大したのは中世以降、近世になって文字の大衆化が急速に進み、商業出版も可能になりました。義務教育制度の普及によって就学率が99%超になったのが1920年以後。これによって、ほとんどの人が文字の読み書きをできるようになりました。日本人のほとんどが読み書きできるようになるまでに、漢字の伝来から実に2000年近くを要した計算になります。
3 日本語で使われる漢字の難しさと便利さ
日本語に導入された漢字には特有の「難しさ」と「便利さ」があります。
難しさとして挙げるべき第一は、読み方が多いことです。ほとんどの漢字に中国語の発音が日本語化した音読みと、その漢字の訳語としての訓読み(これは日本語独特の読み方)があります。そして多くの漢字は音読み、訓読みのそれぞれが、さらにいくつか、あるいはいくつもの読み方をもち、それらはしばしば意味とも関係します。
- 音読みの異なる例 生(セイ・ショウ)
- 訓読みの異なる例 生(い)きる、生(う)む、生(は)える、生(なま)水….
また、同音字・同訓字が多く、それらを使い分ける習慣もあります。
- 同音字を使い分ける例 精算/清算 精根/精魂
- 同訓字を使い分ける例 早い/速い 測る/量る
さらに書き方・読み方が曖昧で(例えば、roseを「薔薇」と書いても「バラ」と書いても、「ばら」と表記しても間違いではない。また、「薔薇」は「バラ」とも「ショウビ」とも「ゾウビ」とも読める)、「憂うつ」「補てん」のような交ぜ書きを許す点も日本語の特色であり、難しさです。一方で、日本語ならではの「便利さ」もあります。漢字と仮名による日本語の混合書記法は表語力に優れ、それは読みやすさにつながっています。
また、単語を短縮して示せることも大きなメリット。例えば「経済産業省」を「経産省」、「日本経済団体連合会」を「経団連」とする圧縮力が読み書きの効率性を高めていると言えるでしょう。
そして、先ほど難しさとして触れた同訓字は、反面で日本語の豊かな表現力を担っています。例えば「口が堅い」「頭が固い」「表情が硬い」は、同じ「カタイ」でもそれぞれの異なるニュアンスを見事に表し分けています。
4 日本語で使われる漢字に必要な施策
現在、私たちが使っている主な漢字集合には、①「常用漢字(2136字・内閣告示)」、②「人名用漢字(863字・法務省所管)」、そして、コンピュータなどで日本語処理をするために規格化された③「JIS漢字(10050字・経済産業省所管)」があります。
このうち常用漢字は法令、公文書、新聞・雑誌など多くの人が読む文書に使う漢字とその読み方(音・訓)の範囲を目安として示したもの。必要な情報は社会にあまねく行き渡るようにしておかなければならないという、民主主義の要件の一つを満たすために大切な役割を果たしています。
一方、単語文字は時期・時代によって日常よく使われる文字に変化が生じます。また、近年は特に情報機器の発達・普及によって文字環境が大きく変わりつつあります。そこで常用漢字には「改定」が必要になります。直近の改定は2010年で、この時に文化審議会国語分科会長の席にあったのが林先生でした。
情報化の進展にともなって文字コードの国際標準化(ユニコード化)が必要になり、2017年12月に電子行政やグローバルな情報交換に必要な約6万字のユニコード化が完了しています。
最後に林先生はここまでの講演内容を踏まえながら、中国から伝えられた漢字と日本語の語彙は切り離せない関係にあること、「語彙は目と耳で覚え、口と手で使う」ことを話されました。「漢字が苦手でよく間違える人は、政治家にはなれても、国語の先生にはなれません」。そんな風刺の効いたユーモアで講演を締めくくると、会場の学生から多くの質問が飛び出しました。
「私たちが使う漢字は今でも増え続けているのですか?」「常用漢字を選ぶ基準はどこにあるのですか?」「人名用漢字などはどのように選ばれるのですか?」など、林先生は一つひとつの質問に丁寧に答えてくださいました。
そして最後は次の言葉で締めくくりました。
「中国に『井戸水を飲むときには井戸を掘った人の苦労を思え』という意味の諺がありますが、みなさんも漢字を使うときに常用漢字・人名用漢字の選定や文字コードの国際標準化に関わった人々の苦労に思いをはせていただければ嬉しいです」
将来、国語の教員となり、正しい日本語を次の世代に教えていく学生たちにとって、「日本語」と「漢字」を歴史的かつ多角的に考え、認識を新たにした実りある時間となりました。