山口先生:「正義」の源流Vol.4:なぜハムラビ法典は復讐法と言われるようになったのか?

2013.11.11

中学の頃、ある教師が、「ハムラビ法典に出てくるような、目には目を歯には歯をという復讐心はよくありません。これはヤクザの論理です……」と言ったのを記憶しています。ハムラビ法典をこのように復讐法としてイメージする人は多いようですが、それはなぜなのでしょう?

「ハムラビ法典=復讐」というイメージが定着した理由は、旧約聖書に出てくる「目には目を歯には歯を」の部分(※1)を否定的に記した新約聖書の以下の記述に起因するようです。

「目には目を、歯には歯をといえることあるを聞けり。されど汝らに告ぐ。悪しき者に手向かうな。人もし右の頬をうたば左を向けよ。」(※2)

この部分を、キリスト教徒が次のように悪意をもって解釈したという説です。「ユダヤ人は復讐を公認した、しかしキリストは右の頬を打たれたら左の頬を出せといった。キリスト教はユダヤ教の復讐公認を否定した愛の宗教である。」(※3)

なぜ、この解釈が「悪意」と言えるかというと、キリスト教の新約聖書(マタイ伝)の「最後の審判」において、悪人は「永遠の刑罰」を受け善人は「永遠の生命」を受けるというような神の裁きによる「同害原則」に支えられているためです。(※4)

キリスト教宣教師が布教に際し、ユダヤ教が「復讐」肯定であるのに対し、キリスト教は復讐ではなく「愛の宗教」という形で差別化し、それが一般化していったという解釈は一理あるような気がします。この解釈をとれば、当然のことながら「目には目を、歯には歯を」が記されている「ハムラビ法典」も同様に復讐法と位置づけられることになってしまいます。

しかしながら、上述のように「ハムラビ法典」の原文を読めば、「やられたらやり返す、倍返しだ!」というような復讐を奨励したものではなく、正義を意図していることが明らかとなります(※5)。我々は、世間の風評に惑わされずに原典を通して真実を探求するという視点を忘れないようにしたいものです(※6)。-終-

  • 1「出エジプト記」21章24節、「レビ記」24章20節、「申命記」19章21節参照
  • 2「マタイ伝」5章38~40節参照
  • 3イザヤベンダサン『ユダヤ人と日本人』220頁 角川ソフィア文庫 参照
  • 4長谷川三千子『正義の喪失』58頁 PHP研究所1999年参照
  • 5なおこうした正義の問題についてもう少し詳しく知りたい方は、拙著『正義を疑え!』ちくま新書 2002年を参照してください。また、ハムラビ法典に関しては、佐藤信夫『古代法解釈―ハンムラピ法典楔形文字原文の翻訳と解釈』慶應義塾大学出版会 2004年や中田一郎訳『古代オリエント資料集成1-ハンムラビ「法典」』リトン 1999年などがあります。
  • 6こうしたことは、世間で否定的に論じられている「教育勅語」や「国定修身教科書」などについても言えることです。これらについての原典解釈は拙著『教育の原理とは何か-日本の教育理念を問う』ナカニシヤ出版 2010年でも論じています。