玉川学園の歴史
夢の学園を目指して始まった玉川の歴史も、95余年という年月を重ねました。
常に、その時代の変化と共に発展し、今では幼稚部から大学院まで約1万人が集う総合学園になりました。
ここでは、1929年の創立当時から現在までの足跡や、キャンパスに残された歴史ある場所・品々にスポットをあて、夢の実現のために込められた想いを振り返っていきます。
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玉川学園カナダナナイモ校地の歴史 ⑤ ナナイモ校地の施設
ナナイモ校地の主な施設は、本部棟、学生棟、そしてマラスピナ・玉川ホールと呼ばれる多目的ログハウスの3棟。さらに、中規模温室や農業機械用の倉庫等もあり、農学部の卒業研究などで日本の温室栽培技術を利用した日本野菜の生産を中心に研究・活動を続けてきた。本部棟の裏手にはホールデン湖が広がり、カヌーを使った研修の場として利用されている。
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玉川学園カナダナナイモ校地の歴史 ④ 玉川学園8年生カナダ研修
1984(昭和59)年以来、カナダナナイモ校地は中学部カナダ夏期語学研修の舞台としても活用されている。2002(平成14)年からは中学部2年生(2006年からは玉川学園8年生)の新プログラムとして、さらに充実した内容での本格的な体験型語学研修がスタートし、現在に至っている。2008(平成20)年からは8年生IBクラスのナナイモ校地での研修も開始された。
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玉川学園カナダナナイモ校地の歴史 ③ 農学部のナナイモ校地での実習
農学部の学生派遣は、駐在員の派遣開始と同時で1978(昭和53)年から始まった。さらに1990(平成2)にカナダ学外実習がスタート。1994(平成6)年には卒論生の派遣が開始された。2003(平成15)年には約4か月にわたる留学プログラムが始まり、今日まで継続して行われている。
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建築年表③ 1994(平成6年)~2024(令和6年)
1994(平成6)年4月1日に小原芳明が理事長・学長・学園長に就任。新たな夢への挑戦のために教育改革が進められ、それを実現するための校舎や研究施設などさまざまな建物が建設された。
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建築年表② 1973(昭和48年)~1993(平成5年)
1973(昭和48)年5月7日に小原哲郎が理事長・学長・学園長に就任。教育環境の充実を図るための校舎等を建設するとともに、カナダのナナイモや鹿児島県の久志、神奈川県の箱根に、それぞれ学外施設を開設した。
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建築年表① 1928(昭和3年)~1972(昭和47年)
1929(昭和4)年に開校した玉川学園。それから95年。より良い教育環境、より優れた研究環境を実現するために、学舎や研究施設などさまざまな建物が建設されてきた。ここでは小原國芳が理事長・学長・学園長であった1972(昭和47年)までの建物建設等を紹介する。
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玉川学園カナダナナイモ校地の歴史 ② ナナイモ校地での教育活動開始
ナナイモ校地は1976(昭和51)年の開設以来、主に玉川大学農学部の海外フィールドおよび学術研究の場として利用されてきた。ただし、最初に活動を行ったのは玉川大学のクラブである海外協力研究部の22名の学生たち。1977(昭和52)年、彼らは建物のペンキ塗り、水道浄化槽や湖への桟橋、道作りなどの労作を行った。1978(昭和53)年に農学部が駐在員を派遣。卒業研究などを行う学生の長期派遣も開始された。同年8月には、アメリカ・カナダ夏期語学研修旅行中であった高等部生たちが、延べ2週間にわたりキャンプでナナイモ校地を使用。こうしてナナイモ校地の活用が進められていった。
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玉川学園カナダナナイモ校地の歴史 ① ナナイモ校地の開設
ナナイモ校地は、環境教育、野外教育、異文化教育などの国際理解教育の拠点として、玉川大学・玉川学園の学生・生徒の学修の場となっている。また、地元ナナイモを中心としたカナダ国内の教育機関などとの交流でも校地を使用。さらに、現地教育機関などの研修や会議等の場として施設の貸出しも行い、地域社会にも貢献している。そのナナイモ校地は、1976(昭和51)年9月に開設された。
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2022(令和4)年の玉川
K-12のサンゴ研究の児童・生徒が伊江島から株分けしたサンゴを約4か月育て、沖縄・伊江島サンゴ研修において沖縄の海に移植。大学のダンスドリルチームJULLASが第22回全日本チアダンス選手権大会のCheer Dance部門で第1位。Human Brain Science Hall竣功。イデア書院設立100周年&児童百科辞典刊行90周年記念講演会開催。
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写真で見る玉川学園⑦ 石碑・表札板・銘板等
キャンパスのさまざまな場所に石碑が設置されている。その石碑とかつてキャンパス内で見かけた看板や表札版、刻字板、銘板、室名板、墨書板などを写真で紹介する。
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玉川大学は最後の旧制大学で、日本で59番目に認可された大学
第90回帝国議会において学校教育法が可決成立する見込みとなったことから、大学令に基づく大学新設認可は1947(昭和22)年2月の玉川大学をもって終了。そのため玉川大学は旧制大学として、日本で最後に認可された大学となった。
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2021(令和3)年の玉川
芸術学部が音楽学科、アート・デザイン学科、演劇・舞踊学科の3学科に改組。大学の新校舎Consilience Hall 2020および総合人間科学(ヒューマンサイエンス)の研究拠点となるHuman Brain Science Hall(HBSH)が竣功。全人教育提唱100年記念シンポジウムをオンラインで開催。
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印刷部の誕生
玉川学園が創立した1929(昭和4)年の7月に印刷部が誕生。学内で組版・印刷ができる体制を整備。印刷部門を内製化することは、学校組織としては非常に稀なこと。コストを削減するとともに、“本当に良いものをつくる”という玉川学園の理念があるからに他ならない。
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写真で見る学園生活② 1973(昭和48)年
小原國芳理事長・学長・学園長が健康上の理由から玉川学園の公職を辞し、玉川学園総長に就任。小原哲郎副学長が理事長・学長・学園長に就任。大学院文学研究科に教育学専攻(博士課程)を増設。小学部1年生新校舎竣功。北海道屈斜路酪農研修農場において農学部の第1回長期宿泊実習開始。波多野精一博士像およびベートヴェン像の除幕式を行う。
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写真で見る玉川学園⑥ 案内図から見る玉川学園キャンパスの変遷
玉川学園案内図は学園を訪問する方々をご案内するために、校門の詰所にて配付されていた。案内図に関しては学生要覧(便覧)や各種行事のパンフレットなどにも掲載。また、学内看板としても設置。それらの案内図をもとに玉川学園キャンパスの変遷を辿ってみる。
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写真で見る学園生活① 1969(昭和44)年
玉川学園創立40周年を記念した礼拝や展示会、美術展、演劇発表会、音楽祭などが開催された。大学生の労作によって「咸宜園」の模築が、塾生の労作で「太鼓櫓」がそれぞれ完成した。同窓会主催の第1回ヨーロッパ研修旅行(7月22日~8月13日)が旧女学部卒業生3名、その他卒業生15名、大学生8名、女子短期大学生9名、高等部生1名、父母7名の参加で実施された。
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玉川学園演劇舞踊団アメリカ・カナダ公演
1989(平成元)年8月14日から9月20日の間、玉川学園演劇舞踊団がアメリカ・カナダの8都市で23回の公演を行い、『ニューヨークタイムズ』などで絶賛された。約3年間の準備を経て、国際交流基金の後援を得て行われた今回の公演で、海外公演はメキシコ訪問以来7回目を数える。
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「ベッカンコおに」カナダ・アメリカ公演
玉川大学演劇舞踊団によって、日本民話劇「ベッカンコおに」が海を渡ってカナダ・アメリカにて公演された。1986(昭和61)年、バンクーバーでの交通博EXPO'86における公演をはじめとして7都市の10会場にて17回の公演。1961(昭和36)年のメキシコ公演以来、6度目の海外公演となった。こうした海外公演は、学生たちの活動を通して日本文化を海外に紹介することに繋がっている。
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玉川学園の国際交流(創立~昭和63年)
「教育というものは、教室の中だけで行われるものでなく、地球上のあらゆるところが、宇宙のすべての場所が教育の現場でなければなりません」と語った小原國芳。その小原が創立した玉川学園では12の教育信条のひとつとして「国際教育」を掲げ、「地球はわれらの故郷なり」という広い視野と気概を持った国際人を育成。さまざまな国際交流に取り組んでいる。
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写真で見る玉川学園⑤「寒稽古」
玉川学園では、教育の一貫として武道(柔道・剣道)をいち早く導入、1967年(昭和42年)には男子の必修科目に。翌1968年(昭和43年)に第1回の寒稽古が行われた。その時の対象は中学部が1~3年生の男子全員、高等部が1、2年生の男子全員であった。「北風に向かって口笛を吹け」「困難なことに自分から立ち向かっていく人になれ」と玉川学園創立者小原國芳はよく言っていたが、まさに寒稽古はその言葉そのものを実現し、体験できるよい機会となっている。