玉川豆知識 No.32
ウルトラマンの生みの親の一人、金城哲夫と玉川学園
■ウルトラマン誕生から50年
テレビ番組『ウルトラマン』は円谷プロダクションの制作で、当時、最高視聴率が40%を超える人気番組でした。番組の主人公ウルトラマンは宇宙の彼方から飛来し、地球を脅かす怪獣や宇宙人と戦うヒーロー。そんなウルトラマンが初めてテレビに登場してから50年が経ちますが、今なお人気を誇っています。
■ウルトラマンを創った金城哲夫と玉川学園
このウルトラマンの生みの親の一人が金城哲夫です。金城は沖縄出身といわれていますが、1938年7月5日に東京で生まれました。獣医だった父忠榮が麻布獣医学校(現在の麻布大学)で学ぶために、妻つる子とともに2年間東京で暮らしていたときのことです。その後、金城は中学生時代までを沖縄で過ごしています。中学校卒業後、金城は玉川学園高等部を受験するために上京。沖縄から船と列車を乗り継いで4日間かかって上京しています。当時、沖縄と本土との行き来には外国旅行なみの手続きが必要でした。金城が玉川学園高等部を受験したのは、母つる子が勧めたからでした。つる子は、玉川学園の創立者小原國芳が1952年にアメリカ統治下にあって本土復帰前の沖縄で講演をした際に、知人から借りた小原の本を読んだことから、玉川学園を知りました。玉川学園高等部に入学した金城は、小学生から大学生までが一緒に生活する学園内の寄宿舎に入ります。当時、その寄宿舎は「塾」と呼ばれていました。
金城が2年生になったとき、3年生と2年生が一緒に受講する講座制が導入されました。金城が受講した講座の担当講師は、入学試験のときに彼を面接した上原輝男でした。上原はこの講座で民俗学について金城たちに熱く語りました。この講座、そして上原との出会いが金城の将来に影響を与えることになります。2学期に入り、金城は自由研究発表会の準備に追われました。沖縄の特異性について研究をしていた金城は、発表会で沖縄語の特徴について発表し、多くの生徒たちに感銘を与えました。また、金城は一年上級の森口豁とともに「玉川東陵新聞」という学内新聞を発行しています。なお、森口は、のちに琉球新報の記者を経て、日本テレビに移り、本土復帰前後の沖縄を追いつづけました。そして制作したドキュメンタリーでカンヌ映画祭において特別賞を受賞し、さらに1983年度日本ジャーナリスト会議奨励賞、1984年度テレビ大賞優秀個人賞を獲得しました。
金城は17歳のときに、まだ本土復帰されていない沖縄への慰問隊に参加しました。男子生徒9名、女子生徒8名、教諭2名(上原輝男、門脇朗示)で結成された玉川学園沖縄慰問隊で、その壮行会が1956年3月8日に開かれました。その模様をNHKテレビがニュースで紹介。そして、この慰問隊のきっかけとなった沖縄への旅行を計画した宮城勝久とともに、金城は先発隊として沖縄に向かいました。慰問隊の真の目的は沖縄の郷土研究で、琉球政府、沖縄タイムスや琉球新報などの新聞社、放送局、琉球大学、那覇高校などの高校を訪問しました。
玉川学園高等部卒業後、金城は玉川大学文学部教育学科へと進学しました。上原輝男は、金城が大学に進学する同時期に、高等部教諭から玉川大学専任講師へと職を移しています。そして金城は、高等部の時の担当教諭であり、大学時代の恩師である上原の影響を受け、脚本制作に興味を持ち始めました。
■金城哲夫とウルトラマン
金城は大学を卒業後、一旦沖縄に帰り、映画『吉屋チルー物語』を製作します。その頃、上原は、玉川学園高等部で円谷皐の担任をしたのをきっかけに、『ゴジラ』や『空の大怪獣ラドン』『モスラ』など大ヒット特撮映画を世に送り出した円谷英二から『竹取物語』の脚本化の依頼を受けていました。(上原が1960年に書いた『燃ゆる恋草』を松竹が映画化)円谷皐は円谷英二の次男で、後に円谷プロダクションの社長になります。同時期、再び上京した金城は上原を訪ねます。そして、上原は脚本家志望の金城を円谷英二に紹介。やがて金城は、『ゴジラ』など東宝特撮映画の脚本家である関沢新一より指導を受けることになり、脚本家としての道を歩み始めます。
1962年、金城の脚本デビュー作『絆』が円谷英二の長男である円谷一の演出でテレビ化され、TBSで放送されました。この頃の金城は、円谷一にとても気に入られており、二人は兄弟のように仲が良かったといわれています。その後も『近鉄金曜劇場/こんなに愛して』(東京放送)や『泣いてたまるか』シリーズの『翼あれば』(TBS)など、彼の脚本がテレビで放映されます。
1963年、金城は特撮で有名だった円谷プロダクションに入社します。そして、円谷英二監督のもと企画文芸部の主任として『ウルトラQ』『ウルトラマン』『快獣ブースカ』『ウルトラセブン』『怪奇大作戦』など、円谷プロ製作の特撮テレビ映画の企画・脚本を担当することになります。円谷作品は爆発的にヒットし、怪獣ブームを引き起こしました。金城は、担当したシリーズにおいて、特撮娯楽作品の枠を超えた名作と評価される作品を多く残しました。その反面、制作されなかった脚本も多くあったようです。
■沖縄に戻った金城哲夫
1969年に円谷プロを退社して沖縄に戻った金城は、琉球放送のラジオ番組のパーソナリティー、沖縄伝統の大衆演劇や沖縄芝居の脚本・演出、沖縄海洋博の式典の構成・演出を手掛けました。しかし、1976年2月23日、老舗の料亭「松風苑」の敷地内にある自宅2階の書斎へ直接入ろうとして足を滑らせて転落。すぐに病院に搬送されましたが、3日後の2月26日に脳挫傷のため37歳の若さで亡くなりました。
円谷プロ所属時代に心に残る作品を数多く世に送り出し、沖縄に戻っても活躍した金城について、没後、テレビや演劇、本などで取り上げられています。例えば、NHKテレビの「歴史ヒストリア」。あるいは、金城の没後40年の2016年2月10日から21日までの12日間、劇団民芸により「光の国から僕らのために―金城哲夫伝―」が紀伊國屋サザンシアターで上演されました。さらに、自身の伝記が3冊出版されるなど、金城は脚本家・プロデューサーとして、極めて稀有な存在感を残しています。
沖縄県島尻郡南風原町の金城の生家である料亭「松風苑」では、金城の書斎を「金城哲夫資料館」として、希望者に公開しています。
(以下、写真提供:南風原町観光協会)
書斎に飾られた色紙。ウルトラシリーズ関係者のサインから、最近の若いファンによる寄せ書きなど
机の上に置かれた怪獣・宇宙人の人形やプラモデルなど
2016(平成28)年、『ウルトラマン』シリーズが開始されて50年を迎えました。50年を記念して、金城哲夫の名前を冠した脚本賞が二つ創設されました。一つは「円谷プロダクションクリエイティブアワード金城哲夫賞」。30分ドラマの企画・脚本を募集。採用作品は円谷プロが映像化に向けてサポートします。もう一つは「金城哲夫のふるさと沖縄・南風原町脚本賞」。沖縄を題材とした台詞劇で広く一般でも上演できる脚本を募集。今年度の授賞式は、どちらの賞も金城の命日である2017(平成29)年2月26日に開催。
参考文献
- 山田輝子『ウルトラマン昇天-M78星雲は沖縄の彼方』(朝日新聞社)
- 山田輝子『ウルトラマンを創った男-金城哲夫の生涯』(朝日文庫)
- 玉川学園五十年史編纂委員会編『玉川学園五十年史』(玉川学園 1980)