玉川豆知識 No.79
『全人』小原國芳古希記念特集号(1956年4月号)
玉川学園機関誌『全人』の1956(昭和31)年4月号は「小原國芳古希記念特集号」。恩師や先輩、知人などのお祝いの言葉が掲載されています。その内容から、國芳の70年の足跡が浮かび上がってきます。
1.そうそうたる方々からのお祝いの言葉
『全人』小原國芳古希記念特集号には、恩師や先輩、知人などからのお祝いの言葉が掲載されています。そうそうたる方々が名を連ねています。
【『全人』小原國芳古希記念特集号の目次】
区分 | タイトル | 執筆者 |
---|---|---|
巻頭言 | 感謝の言葉 | 小 原 國 芳 |
恩師・先輩・知己のことば | 小原君の一面<再録> | 徳 富 蘇 峰 |
小原君の古稀を迎へて | 武者小路 実篤 | |
小原君<再録> | 波多野 精 一 | |
小原学兄の古稀を喜びて | 下 中 弥三郎 | |
お祝いのことば | 小 倉 金之助 | |
ほんとうにごくろうさま | 平塚 らいてう | |
七十歳を過ぎてから | 加 納 久 朗 | |
無邪気に書いて見る | 河 野 伊三郎 | |
小原さん | 加 藤 武 雄 | |
先輩小原さん | 岡 本 明 | |
永遠の青年 | 石 井 漠 | |
古稀をお祝いして | 山 室 民 子 | |
小原先生のあしあと | 属 啓 成 | |
小原先生 | 赤 尾 好 夫 | |
小原先生、七十歳に際しての所感 | 糸 川 英 夫 | |
これからやって頂きたい仕事 | 森 繁 久 弥 | |
サヌキ時代 | 二十四の瞳 | 斎 田 喬 |
サヌキ時代の小原先生 | 田 尾 一 一 | |
永遠の青春 | 谷 口 武 | |
短歌 | 小原先生を思ふ歌<再録> | 北 原 白 秋 |
成城時代 | 先生への手紙 | 古 谷 綱 武 |
感謝 | 大 岡 昇 平 | |
第九シンフォニーのように | 富 永 次 郎 | |
思い出すままに | 鰺 坂 二 夫 | |
成城の小原先生 | 森 雅 之 | |
一粒のたね | 前 田 陽 一 | |
身辺雑記 | 小 原 國 芳 | |
玉川時代 | 大馬鹿になれ | 森 清 |
二つを一つに | 諸 星 洪 | |
玉川学園沖縄派遣慰問隊おみやげ話 | ||
ブラジル大使一行を迎えて |
2.この『全人』小原國芳古希記念特集号に掲載されたお祝いの言葉(いくつかを紹介)
- ①
徳富蘇峰(とくとみ そほう) 1863(文久3)年~1957(昭和32)年
「小原君の一面」(抜粋)
成城新教育の発祥地たる牛込の旧地を引払って、現在の砧村に広大なる別天地を拓いたのは、恰も旧世界の英国を棄てて、新世界に新英国を拓いたようなもので、そこへパイオニアのような気持で、成城新教育の新根拠地を築き上げたところなどは、正に業務担当者たる小原君の仕事であったろうと思う。此の点に於て、沢柳博士は、実に卓越した総支配人をその配下に得たものと言わねばならぬ。
これを要するに脚一度成城の地を踏み、玉川の教育理想郷を訪うた者は、小原君に、新教育の理想に燃ゆる一面あると同時に、事業家としての一面、しかも頗る卓越した事業家としての一面のあることを承知せずには居られない-玉川学園機関誌「女性日本」昭和8年9月号より再録-
【徳富蘇峰】
ジャーナリスト、歴史家であり、近代日本の言論史上における巨人と言われています。2013年NHK大河ドラマ「八重の桜」に登場した徳富猪一郎、その人です。明治・大正・昭和の時代を跨いでの文筆活動と政治文化活動は多岐に渡り、その成果は莫大なものであります。玉川学園創立の年である1929(昭和4)年の7月7日に、蘇峰が初めて来園したことが記録に残っています。蘇峰と國芳は、澤柳政太郎の葬儀で出会ったことで、知り合うこととなりました。
- ②
武者小路実篤(むしゃのこうじ さねあつ)1885(明治18)年~1976(昭和51)年
「小原君の古稀を迎へて」(抜粋)
新しいものを生み出すことは面白い事にちがひない。殊に自分の持つてゐる理想の教育をする事は面白い事にちがひないが、それだけいろいろの困難な問題が起ると思ふ。思はない処から思はない敵も出ないと限らないし、又思はぬ処に困難な問題が起らないとも限らない。その反対に思はぬ処に助力者も出、道も開ける事もあると思ふが、それ等の間をつきぬけて目的に一歩々々近づくことは普通の人には出来ない事だ。小原君はその普通の人の出来ないことを何十年も通り越して今日ある事は、大いに認めていゝ事実と思ふ。
今日玉川学園が何処まで小原君の目的を実現して居るか僕にはわからないが、ともかくこゝまで来れた事は大変だつた事は誰もが認め、その働きは大いに賞讃していゝのだと思つてゐる。 - ③
波多野精一(はたの せいいち) 1877(明治10)年~1950(昭和25)年
「小原君」(抜粋)
一九四六年秋のことと記憶するが、君は、新しく設立さるべき玉川大学の教壇に立つべく、懇切を極めたる勧請の書翰を当時岩手県に疎開中の私のもとに寄せられた。老齢もはや余年をひたすら隠棲の生活に委ぬべく決意していた私は、自己の精力と体力との到底この新しき責任を負うにたえ難きを知り、頗る応諾に躊躇したが、なお繰返し寄せられた君の書翰に宿る、溢るるばかりの熱誠と世に稀なる心尽しとに動かされ、かねてより君の高邁なる理想とその実現に捧げられる君の絶倫の精力とに滿腔の敬意を表しつつあった私とて、遂に心からの感謝と喜悦とをもって快諾を決意した。
―玉川学園機関誌「全人」昭和23年1月「小原國芳還暦記念号」より再録―
【波多野精一】
日本の哲学史家、宗教哲学者。1917(大正6)年に京都帝国大学の文科大学宗教学講座の担当に就任。この京都で、波多野と小原國芳は師弟として出会うのでした。波多野が京都帝国大学へ赴任した当時、小原は京都帝国大学の3年生。卒業論文に着手する時期でした。そんな小原の卒業論文の審査委員の一人となったのが波多野でした。波多野は後に西田幾多郎らと共に「京都学派」として知られるようになります。そして、1949(昭和24)年には、小原のたっての願いで、玉川大学の第2代学長に就任します。しかし、翌年の1950(昭和25)年1月17日、惜しまれつつ72歳で逝去。波多野の葬儀は玉川学園の学園葬として執り行われました。ご遺族から、最期まで使用されていた図書や身の回りの品々が玉川学園に寄贈されました。図書は波多野文庫として教育学術情報図書館に、身の回りの品は波多野史料として教育博物館に保管されています。また、波多野精一の像が、教育学術情報図書館4階玄関前に設置されています。
- ④
平塚らいてう(ひらつか らいちょう) 1886(明治19)年~ 1971(昭和46)年
「ほんとうにご苦労さま」(抜粋)
あの牛込原町時代の青年小原先生の昔から、私の子供たちのたのもしい先生として存じ上げています私は、夢から夢へと、いつも夢を追って、飛躍また飛躍される先生の永遠に若い魂、つきることのない生命力を、限りなく尊いものにおもいます。まことに稀ないきた人間の教育者をそこに見るからです。
先生!どうぞいつまでもご元気で、教育道のため――玉川教育をさらに普遍的なもの、世界的なものとするため、相変わらず八面六臂のおはたらきをおつづけいただけますよう、この上とも期待せずにはいられません。【平塚らいてう】
本名は平塚 明(ひらつか はる)。時期によって、平塚雷鳥、本名の平塚明(はる)、号である「らいてう」を使った「平塚明子(らいてう)」という名前で活動したりすることもありました。婦人運動の先駆者で、女性解放運動家、思想家、評論家、作家。戦後は主に反戦・平和運動に参加されていました。NHK朝のドラマ『あさが来た』に続き、『とと姉ちゃん』にも登場している平塚らいてう。らいてうは、成城学園、玉川学園に子供を入学させるほど小原を信頼していました。その関係もあり、本学刊行の機関誌『女性日本』に8本、『全人』に2本、合計10本もの原稿を寄せています。初めて寄稿したのは1933(昭和8)年の9月号で、タイトルは「私の見た「小原先生」」でした。
- ⑤
糸川英夫(いとかわ ひでお) 1912(大正元)年~1999(平成11)年
「小原先生、七十歳に際しての所感」(抜粋)
七十に達する迄、一貫して一つの事業、日本に、或いは世界にと言った方が良いかも知れませんが、新教育の提唱と、実施と、確立に生涯を捧げられたということは、人間として貴いことでもあり、我々一同にとっての幸福でもあります。
一つの事業を自分の理想に沿って生涯通すということは、この矛盾と誤解と不合理に充ちている現社会に於いては誠に至難な業であって、持って生まれた優れた才能と他に、深い教養と、そしてもっと有難い心身の健康に恵まれなければ不可能であることです。
(略)
個人も民族も、失敗や逆境や不遇や不幸によって心身を消耗して自信を喪い、世間を呪い、無気力な現実家になり勝ちでありましょう。個人に於いても民族に於いても、問題は不幸に遭ったということでなく、その不幸にどう対処したか、するかということでありましょう。昨今の日本の姿を見るとき、小原先生の存在がこの上なく貴重なものに思えます。
小原先生、七十年の歴史に学ぶ個人の一人でも多くなることを希います。それによってかんなんに対処して、不幸を幸にし、いつまでも理想と夢を失わない民族に、吾々がなって行くとしたら、何と楽しいではありませんか。【糸川英夫】
工学者で日本の宇宙開発・ロケット開発の父と呼ばれています。小惑星探査機「はやぶさ」の探査対象となった小惑星「イトカワ」は、糸川英夫の名前にちなんで、そのように名付けられました。1948(昭和23)年より東京帝国大学教授。1942(昭和17)年、玉川学園がキャンパス内に興亜工業大学(現在の千葉工業大学)を設置した際に、糸川を教員として招きました。さらに終戦の年である1945(昭和20)年に、当時、国防上重要な研究にあたっていた糸川研究所の玉川学園キャンパス内への疎開のための移転を受け入れました。そして、糸川は、同年7月1日に開校となった玉川工業専門学校に教授として就任。また、1947(昭和22)年に開設された旧制玉川大学(文農学部)において、翌年度より「科学」の講義を担当。1952(昭和27)年には、糸川が編集を担当した『ひこうき』(玉川こども百科シリーズ)が玉川大学出版部より刊行されています。なお、夫人は玉川学園の卒業生です。
- ⑥
田尾一一(たお かずいち) 1996(明治29)年~1984(昭和59)年
「サヌキ時代の小原先生」(抜粋)
大正二年の春、私らは高松師範に入学して一年西組というクラスになった。その西組の担任が小原先生であった。
(略)
先生の学科は英語であった。師範の英語は時間が少い。それを先生は引き立てようというおつもりだったので教室は張り切ったものであった。毎時、書取がある。書取は満点がサイゴー、ミス一つがネルソン、ミス二つがワシントン。そしてサイゴーを何回か続けると御郷里サツマから大西郷の銅像の小さいのを持ってこられて賞としていただけるのであった。さらに課外の授業をせられる。それが毎朝始業前の一時間である。
(略)
生徒はまたよく先生のお宅を訪ねた。珍らしいお菓子をいただいて、楽しいお話を聞く。日曜にはバイブル・クラスがある。私は今手許にこわれかけた古い新旧約聖書を持っていて、引用などをするときはやはりそれを使うのだが、これは当時高松で買ったもので、その頃引いたアンダーラインがあって、それを改めて読んだり考えたりすることがある。その度に感慨深いものがある。私はこの頃、学生に講義をするとき、その根拠をたいていプラトンとかゲーテとかに求めるが、そういう広大な世界観に棹さそうとするようになったのは、当時から与えられた先生の息吹きに負うているのであろうと思う。
(略)
強行軍とか野外演習のときはいつも先生は生徒と行を共にせられ、擁護された。今もまだ目に見えるようである。軍との合同演習で生徒には少しこたえる。われわれの宿舎は学校の校舎、うす暗い電燈、蓆をしいてねる。先生は仰向けになられ、両腕を拡げて延ばされ、右と左に疲れはてた生徒を一人ずつ腕を枕にさせて眠っていられたことがあった。
われわれのクラスメイトはお蔭で、師範卒業生であるに拘わらず、教育界はもとより学界にも政界にも自ずと進出するような結果になってそれぞれ一カドになっている人が多い。【田尾 一一】
玉川学園の校歌の作詞を担当したのが田尾一一です。玉川学園創立者小原國芳が香川県師範学校で教鞭を執っていた当時の教え子であり、玉川学園創立時には中学部、専門部の教頭格でありました。担当科目は国文と英語とドイツ語。田尾は後に東京芸術大学音楽学部長に就任しました。田尾は、校歌が誕生した当時の経緯について「小原先生のお宅の応接間兼食堂に小判型のテーブルがあって、それをとりまいて、毎夕新しい学校の構想をめぐって先生からお話があった。(中略)そういう雰囲気の中で、校歌が生まれた。私はその生きて動いているアイディアをそのままとらえるとでもいうような、そんな心もちでそれをまとめた」と語っています。「玉川学園校歌」の他に「玉川学園体操歌」も田尾の作詩。なお、聖山にある小原國芳の胸像の石台に刻まれている「小原先生」という文字は、田尾の筆によるものです。
関連サイト
- ⑦
北原白秋(きたはら はくしゅう) 1885(明治18)年~1942(昭和17)年
「小原先生を思ふ歌」(抜粋)
つくづくと深く思ふはこの丘のここにはじめてぞ石を置きし人
日の光いよよ閑(しづ)かに新なり草いきれふかき荒地菊の花
うれしくてをどる裸のこのよさやこの若きにぞ青空はあれ
小原國芳この人はよしほがらかにただ学園を我家とせり
大き業(わざ)君は楽しみき楽しとするこのよろこびに何まさるなし
事すべて私ならず君はただに公にありて子らを思ひき
すべもなくつまりける世に夜も起きて頭(かうべ)垂れゐけむその黒き影
夜ふかく君を思へば善き悪しきすべてはるかなり撲(う)たるる我は
我が太郎声はあげつつ帰りたり小原先生えらしと云ふなり
我の子はまこと直(すぐ)なりや人はいざただにひたぶるに眼もまじろがず
ただに専(ひとへ)に小原先生をよしとする幼なごころに我が額(ぬか)下る
空白に点ひとつうつ事すらやありがたきものを君は創り出ぬ
憂ふ無き君はさもあれ事広くつくづくと人をよく憂へしむ
大味と味はよろしけ幾塩と薩摩の鰤(ぶり)は塩辛くのれ-玉川学園機関誌「女性日本」昭和8年9月号より再録-
【北原白秋】
「からたちの花」や「ペチカ」などで知られる詩人、歌人、童謡作家。その一方で白秋は、数多くの校歌や応援歌の作詞も手がけています。「玉川学園運動会歌」も白秋の作詞。白秋と玉川学園の結びつきは強く、小原國芳の教育哲学に共鳴した白秋は、当時國芳が校長をしていた成城学園に2人の子供を託しました。國芳が成城を辞して、玉川学園の教育に専念するようになると、2人の子供を玉川学園に転校させました。理想を掲げて新たな教育の場を作り上げた國芳。それまでの唱歌にはない感性豊かな童謡を発表するなど、文芸の分野で新たな流れを作り出した白秋。この当時、國芳は女性向けの修養雑誌として1932(昭和7)年に『女性日本』を発刊。そして國芳は白秋に歌詞の制作を依頼。創刊号の巻頭には、白秋の手による「女性日本の歌」が掲載されました。以後、白秋は『女性日本』を創作の場として数多くの詩や随筆などを発表していきました。他にも白秋は歌人として、國芳の活動を題材に数々の和歌を残しています。
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大岡昇平(おおおか しょうへい) 1909(明治42)年~1988(昭和63)年
「感謝」(抜粋)
先生の教育には、よその学校に見られないおっとりとした気分があって、知らず知らずのうちに、僕も感染していたことは、大学へ進み、さらに世間に出て、ほかの種類の学歴を経て来た人間と接触してみると、わが身と比べて、わかるのである。昭和の初め秀才教育が一般の風潮だった頃だが、これは当然人に勝とうという習慣を学生の心に植えつける。
人に勝つのが、所謂成功の近道には相違ないが、周囲との調和を失って、長い間にはいつか蹉跌が来るのが常である。
よし蹉跌が急に来なくとも、何ともいえない潤いのない人間になって、こんどはその子供がひねくれてしまう例を、僕は知っている。自分はよかったが、子供で苦労しなければならない破目になるわけである。
僕が今文士なんて変な商売をしながら、親父も子供も一応呑気にやっていられるのも、遡れば小原先生のお蔭ということになるかも知れない。
(略)
生徒の勝手にさせる先生の方針は、死ぬまで僕の上に作用しているような、被害妄想みたいなものに囚われたりするが、実は妄想でも錯覚でもなく、これが本当の教育というものの成果かも知れない。
先生、有難うございました。【大岡昇平】
大岡昇平は小説家、文芸評論家、フランス文学の翻訳家・研究者として活躍しました。1950(昭和25)年に発表した恋愛小説『武蔵野夫人』がベストセラーとなり、一躍注目されるようになりました。1978(昭和53)年に刊行された『事件』は、映画やテレビドラマにもなり話題となりました。大岡と小原國芳との出会いは、大岡の多感な高校時代まで遡ります。1925(大正14)年12月、大岡は、小原が当時教鞭をとっていた成城第二中学校の4年次に編入しました。その後、大岡は旧制成城高等学校に進学し、1929(昭和4)年に第1回生として成城高等学校を卒業。その間、大岡は小原が担当した「心理学」や「修身」の授業を受講しました。
参考文献
小原國芳監修『全人』第80号 玉川大学出版部 1956年